足柄万葉公園~矢倉岳(2015/10/30)
関東地方は、台風や大雨にも見舞われず穏やかな今年の10月だった。この日も好天との予報に誘われるように山歩きに出かけた。目指すは、秦野盆地から富士山を望むと必ず視界に入ってくる「矢倉岳」。
マイカーで南足柄市の西部から静岡県との県境に位置する「足柄峠」に向かって峠道を上り続けると、峠の少し手前に「足柄万葉公園」がある。
万葉公園にはバス停があり、路線バスがハイキング客などの利用に応えて、土日曜日と祝日だけ運行している。ただし、1日に6便だけで、少し手前にある「地蔵堂」からの乗り継ぎ路線になっているようだ。
このバス停の隣に無料の駐車場があり、6~7台の乗用車が駐車可能だ。マイカーをここに停めて万葉公園案内板の脇からハイキングルートに入る。
ルートの最初に万葉公園の中を進むと、万葉の歌碑が随所に設けられている。
ここ足柄峠は、古代(飛鳥~奈良時代)に防人(さきもり)として主に九州北岸における外敵(唐や新羅)からの侵略に対する防御線への配備兵に動員された東国の男達が越えていった西国との分水嶺だ。彼らはこの峠に立ち、故郷に残してきた家族や恋人を偲んだとされる、多くの詩が万葉集に遺されている。そのいくつかが、ここ万葉公園の歌碑に刻まれている。
矢倉岳(標高870m)に向かうハイキングルート。
途中にある「山伏平」までは、緩やかな下りが続き、陽も差し込まない林間コースでは汗も出ないまま、のんびりウォーキングが続く。
薄暗い林間ルートの中で、赤い実をつけた「マムシグサ」がやけに目立っていた。
ルートの途上の小さな沢を渡る木橋に、大きな木が引っかかって止まっている様子が見えたが、橋が破壊されなかったのが不思議にも見える。
眺望の開けたところから、これから登る矢倉岳を望む。
万葉公園から1時間ほどで「山伏平」に到着。ここは「県立21世紀の森」や「洒水の滝」に向かう分岐点でもある。
矢倉岳の頂上まではあと少し、ここからは上りが続き、後半には階段状の急登が待っていた。
頂上が近づくにつれて、陽射しが周囲を明るくしてきた。この辺りからは草花も観察できる。
ピンク色の実をたくさんつけた「マユミ」。
山頂には「足柄神社」の奥宮といわれている石祠があり、写真の左奥に標高(870m)を記した標識がある。
ここからは、富士山と相模湾の絶景が望めるとの期待があったが、残念ながらたれ込めた雲が払拭されず、カメラに収めた富士山は、わずかに頂上の一部をのぞかせているほかは、すそ野が見えていただけだった。
天候は山歩きには絶好だったが、写真撮影にはイマイチのハイキングも、帰りは来たルートを戻るだけ。これはマイカーで来た者の宿命だ。もちろん、他のルートを迂回するなどの選択肢もあるが、体力が許さない。
こうして、往復3時間程度のハイキングだったが、近くにあっていつも視界に入っていた「矢倉岳」にようやく登ることができた。
「低(低山)、近(近くの山)、短(3~5時間程度で往復)」(ていきんたん)をテーマとした山歩き、またひとつクリアできた一日だった。
マジックショー・アルバム (2015/10/12)
主に市内で活動している「秦野マジッククラブ」が、東海大学前駅近くのタウンニュースホールでマジックショーを披露するというので、観てきました。山歩きのメンバーが、同クラブのメンバーであり、出演するというのでご案内をいただいた。
入場定員180名の会場は、開演時刻を前にシルバー世代で大半の席は埋め尽くされていた。
マジックショーは、同クラブのメンバーが日頃の練習の成果を披露するという「1部」に、11人がそれぞれ用意した演目を演じた。
(最初と最後の演目の写真は、ピンぼけのため残念ながら割愛。席が最後列のためズームで撮影したが、手ぶれが抑えられなかった。)
「水のバラード」
「ギョギョッとびっくり」
「ファンタジー」
「南京玉すだれ」
「OH ワンダフル」
「不思議なシルク」
「マッチングカード」
「はばたき」
「トライ」 (とても素敵でした!)
出演メンバーにいた山歩きの仲間のお一人は、いつになく緊張気味でしたが、衣装も似合っていてステージに立つ姿に、大いに拍手を送った。
「2部」に登場したプロマジシャンのサオリさん。プロフィールは「マジカルステージ」というサイトに紹介されている。
プロマジシャンのサオリさん。さすがにプロです。何といっても、“目力”(最近の用語でしょうか。)が違います。
大きな瞳で観客をひきこむのも、マジックの妙技を支える大きなパワーだと感じさせる舞台でした。
アマチュアとの決定的な違いは、ここにあるなとつくづく感じたが、アマチュアの“隙の多い”演技は、それなりに親しみを感じさせることで良いのだろう。
それにしても「タウンニュースホール」の使用料は周辺器材の利用料を含めると約3万円ほどだろうか。加えてプロマジシャンの出演料もロハではないだろう。
入場料無料で催された今日のマジックショー、運営費はクラブメンバーの割り勘だろうか、などと要らぬ心配をしながら会場を後にした。
里山ウォーク・旧上秦野村(2015/10/8)
山歩きの月例会のこの日は、朝から青空が広がり絶好のウォーキング日和。
ルートは秦野盆地を形成する西側の丘陵地帯。ここは、秦野市では「上地区」と呼ばれ、古くは「上秦野村」であった地域で、上秦野村は「三廻部村」、「菖蒲村」、「柳川村」そして「八沢村」が明治時代の町村制施行によって合併して成立し、戦後の昭和38年に秦野市に併合して現在に至るという。これらの旧村名は、そのまま土地の名前として今日に残されている。
この地域は、四十八瀬川(下流では酒匂川に合流する。)で秦野市の市街地と分断されていて、物流をはじめ文化圏としては「足柄地域」に属するという歴史があり、西側に位置する稜線を超えた寄(やどりぎ)地区(現在は松田町に属する)と一帯となった生活圏を形成していたことを、村社である上秦野神社の由来書きが伝えている。
ここ「上地区」は、秦野市にあっては辺境といっても過言でない。最近のデータをみると、市の総人口約16万8千人のうち、この地区の人口は2336人で約1.4%に過ぎない。そんな過疎の山村をアクセスする公共交通があった。「行け行けぼくらのかみちゃん号」の愛称のコミュニティバスが運行している。上(かみ)地区の名前にちなんで、この地の小学生が名付けたとか。
午前9時30分発の「かみちゃん号」(定員10名)に、この日参加したメンバー8人と一般客2人を満載して出発し、三廻部地区まで直行だ。
小田急電鉄渋沢駅北口を発着地とする「かみちゃん号」。
15分ほどで三廻部地区に到着。運行は1日に5便、土日曜日と祝日は運休とある。
下り立ったバス停「みくるべ榎戸」近くの畑の畦道を数分歩いたところに「頼朝塚」と呼ばれる源頼朝の供養塔がある。銘文は雨に削られていて正確な判読は難しいが、頼朝の没年と戒名が記されているという。
次に向かったのは、「観音院」。天台宗の寺院で「孫彿山福聚寺」という。この寺には、曽我兄弟が仇敵工藤佑経を討つため奉納した願文が保管されている。この願文は、この後に行く柳川の不動院にあったそうだが、不動院は廃寺となり、この寺で保管しているという。
観音院の入口に咲いていた「シュウメイギク」。白いのは珍しい。
観音院から先は、三廻部地区と寄(やどりぎ)地区を結ぶ山越えルートになる。途中にある「住吉神社」は、かつて三廻部村の鎮守であった。
境内にそびえるクスノキの大木。
神社前の山道を登り続け、標高も400m近くなり見晴らしのひらけたポイントから秦野盆地を東に望む。遠く盆地を囲む山並みが途切れた辺りには「金目川」が平塚市に向かって流れ、その先には相模湾が見えていた。
山道の山側の斜面に「ホトトギス」が咲いていた。
つづいて「アキノタムラソウ」。グループのメンバーは皆、植物観察教室の卒業生なので、やたらと詳しい上に、観察力も旺盛だ。この他にも、赤い実をつけた樹木などの名前も適確に覚えていたようだ。
昼食後には、「柳川地区」を歩く。この村の古刹「長福寺」には、明治の学制施行時には小学校が置かれたという。苔むした石灯籠には、ホトトギスの花が飾りのように咲いていた。
しばらく山道を登っていくと、「白體不動尊」がある。“白體”は“白体”であり、その名の通りこの寺の本尊は白い彫像であるという。現在は、三廻部の観音院に安置されているといい、曾我兄弟の仇討ち成就の願文とともにあり、今はここには何もない。
この寺には、往時には修行僧がいくつもの僧坊に起居して修行に励んでいたという。背後の沢には滝があって、身を清めていたらしいが、今では上流にゴルフ場ができ、沢の流れも細ってしまった。
柳川地区の双体道祖神。杉の枝で屋根を葺いている。年に一度だけ葺き替えが行われているとか。
「やながわ生きものの里」の西側の、収穫を終えた田んぼが、のどかな風情を醸している。
ルートの最後には、秦野市立上小学校の校庭に保存されている「センダン」を見学。隣にあった案内板を見ると、ここは標高220m。市内では最も高いところにある小学校だろう。この小学校の校歌にもセンダンの名前が現れる。
校庭にせんだん 聳え立つ 高き香りを 受けついで
学びの庭に ひとすじに 正しく生きる 若者よ ここは上小 わが母校
今日ものんびりウォーキングだったので、進行が予定時刻より遅れていたため、最寄りの渋沢駅まで直帰することと決め、帰り道を急いだ。寄り道をしないと早い、30分余りで渋沢駅に到着し、駅近くの古い喫茶店で反省会の後、解散して帰途についた。